GHOST

★ | NEXT | INDEX

GHOST

 しおり代わりに文庫本に挟んでいたムエットから、思い出がはらり零れ落ちた。
『H12.11.16(木) H書店にて向坂(さきさか)くんと遭遇!』
 私にしては随分丁寧に書かれた小さな文字が、ご機嫌に躍っている。
 遭遇ってなんだよ。街中でツキノワグマに遭ったわけでもないのに。自分で自分につっこみながら、ページを捲る手を止めた。
 向坂くん、の文字を指ですっとなぞる。
 懐かしい名前だった。もう、思い出すこともなくなっていた、むかしむかしの同級生の名前。
 黒いダッフルコートに丸めた背中、あらぬ方向に飛び散った寝癖そのままの髪の毛。ゆったりと間延びした、かと思えば自分だけですぐに納得してしまう自己完結した話し方。それから、いつでもとろんと眠い眼差し。
 カタカタと私の脳内データベースが、キーワード検索結果を挙げ連ねてゆく。
 それでもやっぱり忘れてはいけないのは、ムエットにもある本屋で遭った――これじゃ災害みたいだな――もとい、逢ったときのことだろう。



 時々右手に持ったままのムエットを顔に近づけ、香りの変化を確める。柔らかでほわほわとした香りが、どうしてか心に強く響く。つかみ所がなく靄のかかったようなところがあるのに。何度も何度も吸い込んだ。
 傍から見たら怪しく見えることこの上ないだろう。香水屋さんの中ならともかく、駅の地下街。立ち止まることなく人ごみの間を縫って早足で歩きながら、しきりに紙の匂いに鼻をくんくんと動かしている女がいたら、私だって怪しく思うだろうから。
 それでも、少しでも変わりゆく香りを嗅ぎ逃したら勿体無いから、気付くと何度も何度も同じことを繰り返してしまっている自分に気付く。無意識な行動だからこそ、私がよくよく現れてるんだろうけど。
 1人暮らしを始めてから、始めての冬。
 予備校での授業が終わってからは、決まって駅の地下街をぐるりと一周する習慣ができていた。外は木枯らしも吹き始め、ひやりと突き刺さる冷気に満ち満ちているけれど。暖房がガンガンに効いているここでは、コートを羽織ったままでは暑い。周りを見ても、コートを片手に持ってはいるものの薄手のキャミに素足のマイクロミニの女の子なんてざらに居る。不精なのかなんなのか、割と男のひとはコートのまま歩いていたりしたけれど。ハンカチを片手に汗を拭い拭いしている様子は、確実に私の中から季節感を奪ってゆく。
 大学受験までのカウントダウンは確実に加速度を増しているというのに、私はどこかまだ時間の移り変わりについていけずにいた。
 1人で街中を歩くのも、もう慣れた。はじめは少し怖かったけれど、今では駅裏の寂れた風俗街も、そ知らぬ顔で通り過ぎることができる。もちろん、予備校で友達と呼べる存在も少しだけど出来た。それでも予備校での友達、志望校が同じ友達。結局のところ、ライバルでもあるから。お昼やお茶を一緒にするくらいならともかく、遊びにいく約束はなんとなく取り付けにくかった。ましてや、授業が終わった後、毎日毎日目的もなくぶらぶらと歩くことに付き合うような暇人がいるわけもなく、私は当然のように1人で行動する癖ができた。
 高校までは考えもしなかった。どこにいくでも――それこそトイレに行くのだって、友達と一緒だったから。1人きりで行動することが怖かった。自分で考えるのが嫌だというよりは、あのひと友達いないんだなと思われるのが怖くて、だからいつも誰かの傍に居た。
 1人で歩く癖が出来て、自分が思ったより自分だけの時間を欲していたことに初めて気付いた。人の意見に左右されず、ただただ自分の意見だけで行き先を決めて、気が済むまでひとつの店に留まれる。歩き疲れたらスタバの奥席でキャラメルマキアート――コーヒーの苦味は苦手だったけれど、フォームミルクとキャラメルソースが入ったこれは大好きだった――を時間をかけてゆっくりと飲んで。遊び歩きたかったというよりは、家に帰るのが億劫だった。誰も居ない、ひんやりとした部屋は息が詰まりそうで、出来るだけ帰り時間を引き延ばす。
 このままでいいわけがない。もう1年浪人する余裕なんて、まだ下に2人も居る私にはないんだから。自分で自分に言い聞かせても、嫌だった。
 勉強しなくちゃ。勉強しなくちゃ。勉強しなくちゃ。
 1人で部屋に籠もっていても、そう思えば思うほどにシャープペンシルを持つ手は止まった。
 滅入りかけた思考を遮るように、私はもう一度ムエットに染み込んだ香りを肺いっぱいに吸い込む。
 心なしかさっきよりも甘く、香りが強くなっているようにも思える。
 1人暮らしをはじめてからできた習慣は、地下街巡りのほかにもう一つ。香水を身につけるようになった。
 気分が沈みがちなとき、色とりどりの香水壜をみていると幸せな気分になれる。心がざらついているとき、お気に入りの香りを纏うと自然と平静を取り戻すことができる。
 香水は心のビタミン。今の私になくてはならないものになっていた。



 なんとなく、ちづちゃんのイメージ。
 すっかり顔なじみになった香水屋の店員さん、妙子(たえこ)さんが手渡してくれた香りは、GHOSTという名前のものだった。
 お化け? 尋ねると、くすりと微小な笑みを浮かべた。お化けはちょっと違うわねえ。幽霊って方が近いかしら。一番有名な意味ならば、だけど。
 他にどんな意味があるのか尋ねても、妙子さんはただ目尻に笑みを浮かべるだけだった。受験生でしょう? 自分で調べなさい。言外にそう語っているかのように。
 自分のイメージとして渡された香りだというのもあるけれど、なんだか心の奥の方に響いてくる。
 パッと何の匂いとは言い表せない、もやもやとした香り。ドライアイスの煙に、ほんの少し甘い香りがついているような、はっきりしない香り。とも思えば、どんどんと香りが移り変わっていることは、香水初心者の私にも分かりやすかった。
 なんの香りなんだろう。思いながら、地下街を抜けて、駅ビルをエスカレーターで上ってゆく。
 ★ | NEXT | INDEX
Copyright (c) 2004 SUMIKA TORINO All rights reserved.